あのときの記憶

うふどぅ

2010年01月17日 15:25

今日で阪神大震災から15年です。


あのとき私は神戸市灘区にいました。

未明に激しい横揺れで起こされました。

瞬時に地震と分かったものの何もできず、天井が落ちてくるかもと布団をかぶって叫んでいました。
初めて死を意識したのを覚えています。

下宿は古いものの、頑丈だったので無事でした。
コップ一個割れただけで済みました。
しかしライフラインは止まってるため、ひとまず公衆電話から実家に連絡を。
行列ができた電話ボックスから、無事を手早く伝えました。
家族も一安心したようです。

しかし六甲の高台から浜側を見渡したときの、あちこちから大きな黒い煙が立ち上る異様な景色は忘れられません。


その後、散らかった自宅(地震前後の違いはあまりわかりませんが…)を片付けました。
ただ、ライフラインも食料もなく、また余震もあって不安なため近くの小学校に避難することに。
避難所では、ひとりで食事しているところに老夫婦が声をかけてくれて、一緒に食べさせてもらいました。
私には祖父がいなかったので、初めておじいちゃんができたような気持ちでしたね。

その後1/19に大阪府枚方市の親戚を頼って避難することにしました。
しかし六甲から電車が動いていません。
話によると、大阪―神戸の中間にある阪急西宮北口駅からなら大阪方面の電車が動いてるとのこと。
その特急に乗るため、六甲から西宮北口まで阪急電車の線路を歩くことにしました。

線路は所々隆起しており、周辺は潰れた家屋が目立ちました。
西宮北口の一駅前からは線路が歩けないようで、町中を歩くよう誘導されました。
西宮の様子は、よくテレビで映っている倒壊家屋が多い状態で、自宅の周囲よりひどいものでした。

西宮北口からは大阪梅田行きの特急が動いており、電車に乗ってると何だか震災前に戻った気分でしたね。
枚方の親戚宅までの車の中で、やっとその日が自分の誕生日であることに気づきました。

その後諫早に帰ってきたので、とりあえず震災から避難することができました。
しかし地元の方々は全てを失った方も多く、今も癒えない傷を負ったままではないでしょうか。
震災で犠牲になった全ての方々のご冥福と、被害に遭われた方々のご多幸をお祈りしたいと思います。